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2008年2月

ふたまただったとき\(゜ロ\)(/ロ゜)/

自分がふたまたの片方、しかもセカンドの存在だったとき・・

真剣につきあっていたつもりだったのに相手には本命がいた。それが発覚したとき、ものすごく苦しいです。心が痛くてたまりませんね。びっくりして頭が真っ白になるかもしれません。

どうしても、自分が選んだ人がこんな人だったと認めたくない。つまり自分に見る目がなかったなんて認めたくない。だからどうしても相手を責めたり憎んだり、本命の人に嫉妬してしまいます。当然ですよね。

ただ心がラクになっていくためには、自分が相手を見間違えてしまったんだと、受け入れることがまず必要だと思います。

受け入れた上で、その先2本に分かれた道のどちらかを選べばいいと思います・・・きっぱりあきらめるか、ふたまたでも相手のそばにいるか。

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恋愛コラム みんな人間

相手に対しては強く要求することを、自分は出来ていないというケースがよくあります。

彼に優しくして欲しいと強く要求していながら、自分は彼に優しくしてなかったりする。しかも悪びれることなく。

状況はいろいろですが、恋愛ではこのようなことがよくあります。
立場が逆転すると、とたんに相手を責めるような気持ちになるんですね。

相手も自分と同じ、人間なんだ、ということを忘れてはいけません。それぞれ個々の感情があるのです。

どんなに大切にしてもらっていても、失いたくなかったら手抜きや利用する(試す)ようなことをしちゃだめです。
どうしてかというと、物じゃなくて人間だから。
思い通りに動かすスイッチが付いているわけじゃないんです。
あぐらをかいていると、いずれ思い通りにはならなくなります。

相手の立場で少し想像すればわかることがたくさんあります。性格もある程度わかっているわけだし。
相手の態度に どうして‥!?、と愚痴ったり不満になるところで立ち止まるんではなく、そこから自分はどうするか、です。

悔いのないようにしましょう!(^^)!

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恋愛コラム 千差万別

人の気持ちというのは千差万別です。
“好き”の気持ちの種類も人それぞれです。特に欲の有無、執着の有無の違いが行動や言葉に顕著に出るのです。

私のことを好きならどうして〇〇してくれないの?と悲観や不満に思っても、相手にしてみればそれが特に重要でない場合もあります。
なにも〇〇するから愛が強いとは限らず、むしろ〇〇しない側が愛が深いケースもあります。

〇〇の中身が問題なのですが、だいたいどんな綺麗な言い方をしても、欲と執着に関する内容です。〇〇してもらうことで一時的に満足を得るという、依存の場合もあります。←これはまたすぐ不安になります

消極的な彼でも、言葉にしてくれない彼女でも、結構愛情を持っている場合があります。

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見えないからといって(^_^;)

冠婚葬祭などに包むもの‥
のし袋にもいろいろ種類があって、最近はとてもカラフルになりました。

お祝いとお見舞いの結びの違い、恥ずかしながら私は最近知りました

どんな習慣も、もとをただせば真心の試行錯誤を以って完成したのだと思います。

それなのに今では「これさえしておけばいい」という、自分を保護する道具に使われているようなことも多いです。
普段連絡をとったこともない親類が不治の病になった、興味本位でお見舞いに行く、体裁はいい。こんな人を見ると辛くなります。
お葬式にしても、心がない人が来ていることがよくあります。これさえしておけばいい、という保身です。
霊になった人からは全て見えていますから、心は興味本位で顔だけ神妙に焼香をしてるのは何の意味もないのです。いじめみたいなもんです。お葬式の帰りに噂話をしてるのも、死んだ人には見えてるんですから。
結婚式でも、そこに飛び交う念は本当に複雑で異様です。

もともと日本にある気高い習慣、真摯であるべきものが、いつのまにか保身や自己満足に使われてしまう。
本当はとても残酷なことなのに、まるであたりまえのようになっています。目に見えないからやりやすいのです。

幼いころから感じやすかった私は、見せかけの常識に対する反発から、そっちの方は学んでなく、大人になった今、困るときがあります。
ただ真心というのは、透明な目で見ればわかりますから。多少マナー通りでなくても真心がある方が、例えばきっちりマナーができていて心が悪いよりはずっといいのでは‥と思ってしまいます。

両方持ち合わせるのが理想ですけどね。

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夜のお菓子(゜o゜)\(-_-)

今日は弁才天様の初巳祭があり、そこで静岡からきたお客さんに会ってしまいましたf^_^;
安倍川もちとうなぎパイをいただきましたm(__)m
静岡と言えば私が小さい頃、毎年旅行に行っていました。当時は和菓子に興味がなく、おいしく感じなかった安倍川もちが、大人になったいま とってもおいしいです(#^.^#)うなパイも。
Aさんありがとうございました。
静岡から祈願のために新幹線で来ていました‥必死です。
 
人が信仰をもつきっかけは、悲願があるということがやはりダントツでしょう。人間は娑婆のいきものなのです。
 
たとえ成就が目的だとしても、畏怖と感謝をもって神仏に手を合わせることはとっても大切なことです。
そして祈願をしながら努力をすることに、とても意味があります。
 

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倖田來未さんの失言??

倖田來未さんの発言が問題視されてますね。テレビなんかで、コメンテーターの人がいろんなこと言ったり、CMも放送しなくなったり、テレビ出演がなくなったりといった、いわば罰を与えているかのような動きに、とっても違和感をおぼえます。

謝ってすむ問題なのかどうか、というのはあると思うんですが、私個人的には謝って済むのでは・・と思うのです。いちっっっばん重要なのは、言葉そのものよりも言葉を発したときの気持ち・動機だと思うからです。彼女の発言を見ると、なんか情というか・・・ちゃんと想いがあるみたいなんですね。

確かにあれだけの有名人だから、とっても影響力がある、ということは考えるべきだったんだろうと思います。その部分は謝って済むのではないかと(私は思います)

傷付いた人の心はどうなるの?という点に関しては、彼女の気持ちを想像すれば傷つきの度合いもだいぶ少なくなるのではないか、と思います。許せるぐらいまで。

わかりやすく顕著な例を挙げると、誰かが万引きをした・・「むしゃくしゃするから、あれが欲しかったから、金がないわけじゃないけどさ、それがなにか?」という類の万引きと、「妹がお腹をすかせて泣いている、親はお金もご飯もくれない、わかった 今おにいちゃんがパンを持ってきてあげるね」という万引き。

同じ万引きでもあなたが評論家なら、同じ評価しますか?でも、形がかわると(比喩を使えば)やれ万引きだ!といって万引きをひとくくりにして責めてしまうのが今の世の中のような気がします。責める側にもストレスがあって、責めることで解消する面もあります。

公でも、ひとくくり的な対処じゃなく、それぞれの場合に応じて対処していくような世の中になればいいなぁと思います。

あらゆるものが淘汰されていけばいいですね。

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斉藤さん

ドラマ「斉藤さん」を知っていますか?
幼稚園の母親たちの話し。
幼稚園に少なからず迷惑をかけ、暴走する高校生たちに対し、刺激しないように放っておこうとする母親たちと、身をもって高校生を正そうとする斉藤さん。

刺激しないように、自分に災難がふりかからないように、見て見ぬふりをしよう‥今の世の中、こんなことがなんと多いことか‥。

明らかにわがままと思える人間に、まわりがハレモノでも触るように甘やかしていたら、その人間は変わりません。
確かに怖さがあって、実際「斉藤さん」のように行動できないことは多々あるでしょう。
問題は行動できるかどうかより前に、「放っておこう」「まったく、あの人は余計なことをして‥」で止まってしまう現代人の「心」にあると思います。

行動するまでの勇気がなくても、「勇気がないという自覚」と「本当はこうするべきなのだ」と感じることのできる「心」を持つことが必要なのではないかと思います。

実際、幼稚園や小学校のお母さんたち、また先生たちを見ていて、一体何をもって正しいとしているのかわからなくなるときがあります。

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